TOKYO CITY MAN
1996年、多分3月、 この街では しかし「精神の砂漠」のような街に暮らしていると ある男は私に向かってこう云い放った どのように私は霊を運ぶん 私はある種の賭けに勝ちたくなった モーレツに 私は肉体として存在したい モーレツに行こうじゃないか やりたいことをやるだけだ (当時のパンフレットより) |
「1995」は満足のいく仕上がりだったが、セールスは思った程伸びなかった。レコード会社のスタッフも頑張ってくれたのだが、「資本主義」は云うまでもなく売れてナンボの世界である。売れないものに金を使う訳にはいかない。我々はクビを宣告された。
苦痛と快楽
しばらく考えた後、俺は事務所も辞めることにした。事務所にしてみれば、金を稼げないミュージシャンはただの人に過ぎないわけだし、何の組織にも属さないところから自分の音楽への情熱を再確認してみたいと云う思いもあった。不思議と悲壮感はなかった。もともとミュージシャンなんて一匹狼なのだ。レコード会社がなくてもファンはいるし、歌いたいことは山程ある。
俺はもう一度人間関係を再構築してみることにした。
フリーになってわずか3日後、夜中に何かが閃いた。すぐさまコンピューターに向かって2時間の間、キーを叩き続けた。その歌は記憶が正しければ30番まである歌で、歌い終えるまでに15分はかかるものだった。とあるシンガーが、俺宛に書いた(と勝手に思い込んでいる)歌への返信のつもりだった。その曲の名は「ミスターソングライター」と云う。書き上げた時、気分が高揚したのを覚えている。部屋の中を雄叫びをあげて走り廻った。
ミュージシャンの財産は金ではない。少なくとも俺にとっては。曲であり歌だ。俺は何処の組織にも属していなかったが、天下無敵と云う気分だった。
どのように私は感じるように仮定しています
俺には信用出来る人間がこのクソッタレな音楽業界に何人か居た。早速俺はその歌を抱えて、ファイブ・ディーのS氏を訪ねた。彼はふたつ返事でマネージメントを引き受けてくれた。
レコード会社はポリドールに決まった。これでまたレコードを出すことが出来る。ポリドールに決めたのは、担当のディレクターの目の中にある光が好きだったからだ。
こうして曲創りは始まった。
今となってはどうやって曲を書いたのか想い出すことが出来ない。ただ何かに衝かれたように書きまくっていたのだろう。気が付くと、「トーキョー」と云う名の付く曲が沢山あった。きっと自分自身が抗っている対象を確認したかったのだろう。
同じ頃、ルー・リードがアルバムをリリースした。その中に「NEW YORK CITY MAN」なる曲があったのだが、彼に「おまえはTOKYO CITY MANと言い切れるのか?」 と聞かれている気がしたのだ。憧れたって仕方がない。俺は俺で、彼は彼で他人は他人に過ぎない。人間は誰しもがひとりだ。それをわきまえた上で生まれてくる愛情や人間関係と云うものがある。それを描きたかった。
レコーディングはS氏をプロデューサーとして、モーガンの豊富な引きだし、伴ちゃんの歌うドラムを中心に進められた。終った時、猛烈に充実感があった。俺としては冗談をテンコ盛りにしていたつもりだったが、今聴き返してみると、全然笑えない。余裕がなかったのだろう。客観性を失っていたのだろう。けれど、ここで俺は何かを得た。自分が音楽を愛していることを確認できた。それでいいのだ。
ジャケットは横尾忠則さんが描いてくれた。ミックスはヴァン・モリスンのエンジニアであるミック・グロソップ氏が担当した。夢のような組み合わせだった。
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